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第五話 新ブランド、という響き

Author: 海野雫
last update Petsa ng paglalathala: 2026-05-05 19:08:29

 翌週の火曜日、紡は洗面所の鏡の前に立っていた。普段より三十分早くマンションを出るつもりだった。

 いつもと変わらない朝のはずだった。なのに、髪をセットする手にいつもより力が入る。前髪の流し方を二度直して、ようやく落ち着いた。

 ネクタイを締め直すと、結び目がいつもより一センチほど上に、きれいに収まった。たったそれだけのことで、なにかいいことが起きそうな気がしてくる。気がしてくる、ということ自体が、自分でも不思議だった。

 今日は新ブランドの社内説明会議がある。ターゲット、展開商品、関わる人員。すべてが今日明らかになる。新ブランドの立ち上げにかかわれる社員は、社内でも一握りしかいない。そこに自分が選ばれたことは、紡にとって、入社五年目で初めてはっきりと手応えのある出来事だった。

 雲の上を歩いているような気持ちが、出社しても抜けなかった。エレベーターで自分のフロアに着いたとき、社員証をかざすカードリーダーの音が、今日はすこし高く聞こえた。いつもと同じはずなのに。

 ふと立ち止まり、紡は両手で軽く頬を叩いた。

 メイン担当になるということは、自分が中心で動くということだ。浮ついている場合じゃない。気合いを入れ直して、自席へ向かった。

 自席に着いて、会議資料を確認する。

 文字を追うだけで胸が高鳴る自分に、紡はすこし笑ってしまいそうになった。こんなふうに仕事に高揚しているのは、入社してから初めてかもしれない。

 時計を見ると、会議の十分前だった。すこし早いかもしれない。それでも紡はノートパソコンを小脇に抱え、会議室へ向かった。普段は冷たく落ちてくる蛍光灯の光が、今日はどこか温度を持って見えた。

 会議室は指定席だった。ネームプレートが机ごとに置かれている。紡は深呼吸して、自分の名前のプレートが置かれた席に座った。

 まだ誰も来ていない。プレートをひとつずつ確認していく。

 ライフスタイル事業部の相沢本部長が上座。おそらくこのブランドの総責任者になるのだろう。次に紡の所属する営業企画部の部長、関連部署の課長がふたり。隣の席は営業部の黒木の名前だった。

 会議開始の三分前、参加者がぞろぞろと入ってきた。営業企画部長が紡を見つけて目を見開く。

「おっ、白瀬。早いな。気合い入ってるな」

「はい。初めてメインで入るので」

「気負わずいけよ」

 肩を軽く叩かれて、紡は頭を下げた。

 相沢本部長も着席して、開始時刻が迫ってきても、隣の席だけが空いていた。開始の直前になって、黒木が「すみません、遅くなりましたー」と言いながら滑り込んできた。

 紡は会釈した。黒木はすぐに身を寄せてきて、息のかかる距離で、耳元に小さく囁いた。

「白瀬さん、今回はまた大きな案件ですねぇ。よろしくお願いします」

 紡は笑顔で「お願いします」と返した。

 紡は黒木と過去に何度も組んでいる。距離感が、いつもすこしおかしい。他の同僚にも同じなのかと観察してみたことがあるが、そうでもなかった。なぜ自分にだけ近いのか、紡には見当がつかなかった。話しやすいから、というだけのことかもしれなかった。

 左隣で、紡の腕に黒木の腕がぴったりと触れている。視線に気づいたのか、黒木がこちらを向いてにこっと笑った。紡は曖昧に微笑み返して、すぐに正面を向いた。

 相沢本部長が立ち上がった。

 会議室の空気が一段、引き締まった。

 スクリーンにスライドが映し出される。

「これから新ブランドの説明に入る。ここにいる全員が、今回のプロジェクトに関わる。しっかり頭に入れてくれ」

 紡の喉が、自然と上下した。

 次のスライドに切り替わる。

「新ブランド名は『blanc(ブラン)』。我が社が初めて本格参入する、プレミアム・ライフスタイルの文具ラインだ」

 次のスライドには、商品が並んでいた。万年筆、ノート、レザーペンケース、デスクアクセサリー。どれも素材から手をかけた、上質な品ぞろえだった。

「ターゲットは三十代から四十代の働く大人。来春三月下旬の市場投入を目標とする」

 紡は資料に目を落とす。

 ブランドコンセプトは「余白のある生活」と書かれていた。

 働く大人。紡よりすこし上の年齢。コンセプトを目で追いながら、自分のいまの暮らしを思い返した。余白のある生活など、紡からはほど遠かった。毎日仕事に追われて、プライベートはほとんどなにもない。恋人もいない。十年前から片想いしている人が、ひとりいるだけだった。

 余白、という言葉を紡はもう一度、心のなかで反芻した。空白とは違う。なにもないということではなく、なにかが置かれるべき場所として残されているということ。自分の生活には、その余白すらもう、ない気がした。仕事と、片想いと、その二つの隙間に、もう、空きはなかった。

 その人の顔が、ふいに脳裏をよぎった。

 駅のホームのベンチに崩れて眠っていた、あの夜の有馬。あんなふうに無防備に眠るなんて、考えただけでも危なっかしい。マンションまで送り届けて、翌日にきちんと連絡が入ったのだから、無事だったことは確かだ。

 ほっとした、と認めた瞬間に、その隣で、別の感情がそっと頭を持ち上げる。

 あの「ありがとう」の五文字以来、メッセージは止まったままだった。

 相沢本部長の声が、紡の意識を引き戻した。

「営業企画部から白瀬をメインに専任アサインする。代理店選定、クリエイティブディレクション、販路設計、店頭展開、すべての統括窓口だ」

 会議室から拍手が起こった。

 紡は立ち上がり、背筋を伸ばした。

「……よろしくお願いします」

「白瀬、頼んだぞ」

 相沢本部長が紡に向けて笑った。びりっと緊張が走ったが、いやな緊張ではなかった。入社五年目でこの規模を任されるのは、社内では異例の人事だった。

 会議が終わると、紡は一気に体の力が抜けるのを感じた。

 代理店選定だけでも頭が痛いのに、クリエイティブディレクションや販路設計、店頭展開まで、すべて自分の肩に乗ってくる。会議前まで雲の上を歩いていた感覚が、終わった瞬間にひっくり返って、足元から不安が押し寄せた。

 本当に自分で務まるのか。

 いや、相沢本部長が直々に名指しした人事だ。これまでの仕事ぶりが認められた、ということでいい。そう自分に言い聞かせた。言い聞かせても、不安はきれいには消えなかった。

 ノートパソコンを抱えて会議室を出ようとすると、黒木に肩を叩かれた。

「白瀬さん、また相沢さんのお気に入り案件かぁ」

 ニヤニヤしながら顔をのぞき込んでくる。

「またって。今回が初めてですよ」

「いやいやいや。前も相沢さんの案件、入ってたじゃないですか」

「あれはたまたま人手が足りなかっただけです」

「ほんとかなぁ。相沢さんのご指名って聞きましたよ。モテる男は違うね」

「モテてないですよ」

「またまたー。今度、ご飯奢ってください、出世頭!」

 黒木は紡の肩に腕を回してくる。紡はすこし身をよじって距離を取った。

「もう」

「はははっ。じゃ、お誘いお待ちしてまーす」

 黒木はそのまま笑いながらオフィスへ戻っていった。

 紡が小さく息を吐いたとき、向こうの島の席で水瀬遥と目が合った。水瀬はなにも言わずに、すぐ視線を手元のキーボードに戻した。なにを見ていたのかは、訊かなくてもわかる気がした。

 その日の午後、デスクの電話が鳴った。

「はい、白瀬です」

『相沢だ』

 紡は息を呑んで背筋を伸ばした。

「お疲れさまです」

『すぐにこっちに来てくれ』

「承知しました」

 受話器を置くと、紡はノートパソコンを抱えて相沢本部長の席へ向かった。本部長は紡がくると一瞬だけ顔をゆるめて、すぐに表情を引き締めた。

「来週、代理店コンペの結果が出る」

「はい、スケジュール通りですね」

「そうだ。勝った会社の担当と、お前が密に組むことになる。この先半年は、家より会議室にいると思っとけよ」

 ニカ、と歯を見せて笑った。

「はい」

 紡が頷くと、相沢本部長は一枚の資料を差しだした。

「コンペ参加の五社だ。目を通しておけ」

 大手から中堅まで、聞き覚えのある社名が並んでいた。

 自席に戻り、紡はリストを上から順に確認した。

 その中のひとつ、セントラル・アド、で目が止まった。

 中堅よりすこし上に位置する代理店で、クリエイティブの評判がいい。大手より小回りが利く分、新しい仕掛けを次々と打っているらしい。紡は、別の取引先からもそんな話を聞いたことがあった。

 ――有馬は、どこで働いてるんだろう。

 ふと、思った。

 有馬の実名のSNSアカウントには、業種も会社名も書かれていなかった。プロフィール欄には、ほんの数行、当たり障りのない自己紹介があるだけだった。投稿される写真からも、勤務先を匂わせる情報は徹底して避けられていた。

 連絡先はもう手元にある。気軽に訊けばいい。

「いまどこで働いてるの」とメッセージを送るだけのことだ。答えが返ってこようが返ってこまいが、訊いたという事実だけは残る。

 訊けばいいのに、訊けない。

 十年前に距離を取られたという事実が、まだ、紡の指の動きを止めていた。連絡先をくれた相手に「いまどこで働いてるの」と訊かれたら、有馬は「答えるのが面倒だ」と思うかもしれない。面倒だ、と思われた瞬間に、紡は二度と返信を受け取れなくなる。そう考えてしまう自分が、紡には、すでに見慣れた顔だった。

 その日の帰り、紡はいつもの遠回りをやめて、駅まで真っすぐ歩いた。

 ホームへ上がると、視線が反射的にあのベンチを探した。誰も座っていない。同じ位置に、同じ形で、ただそこにあるだけだった。

 歩調をすこしだけゆるめて、ベンチの前を通り過ぎた。

 到着のアナウンスとともに、電車が滑り込んできた。突風のような風を浴びながら、紡はその電車に乗り込んだ。

 車内でスマホを取り出す。

 有馬とのメッセージ画面を開く。『ありがとう』の五文字のあと、時間は止まったままだった。

 なにか、送りたい。

 送りたいのに、次の一手が、紡には、どうしても思いつかなかった。

 窓のガラスに自分の顔が映っている。ネクタイは、朝よりすこし、ゆるんでいた。

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