로그인翌週の火曜日、紡は洗面所の鏡の前に立っていた。普段より三十分早くマンションを出るつもりだった。
いつもと変わらない朝のはずだった。なのに、髪をセットする手にいつもより力が入る。前髪の流し方を二度直して、ようやく落ち着いた。
ネクタイを締め直すと、結び目がいつもより一センチほど上に、きれいに収まった。たったそれだけのことで、なにかいいことが起きそうな気がしてくる。気がしてくる、ということ自体が、自分でも不思議だった。
今日は新ブランドの社内説明会議がある。ターゲット、展開商品、関わる人員。すべてが今日明らかになる。新ブランドの立ち上げにかかわれる社員は、社内でも一握りしかいない。そこに自分が選ばれたことは、紡にとって、入社五年目で初めてはっきりと手応えのある出来事だった。
雲の上を歩いているような気持ちが、出社しても抜けなかった。エレベーターで自分のフロアに着いたとき、社員証をかざすカードリーダーの音が、今日はすこし高く聞こえた。いつもと同じはずなのに。
ふと立ち止まり、紡は両手で軽く頬を叩いた。
メイン担当になるということは、自分が中心で動くということだ。浮ついている場合じゃない。気合いを入れ直して、自席へ向かった。
自席に着いて、会議資料を確認する。
文字を追うだけで胸が高鳴る自分に、紡はすこし笑ってしまいそうになった。こんなふうに仕事に高揚しているのは、入社してから初めてかもしれない。
時計を見ると、会議の十分前だった。すこし早いかもしれない。それでも紡はノートパソコンを小脇に抱え、会議室へ向かった。普段は冷たく落ちてくる蛍光灯の光が、今日はどこか温度を持って見えた。
会議室は指定席だった。ネームプレートが机ごとに置かれている。紡は深呼吸して、自分の名前のプレートが置かれた席に座った。
まだ誰も来ていない。プレートをひとつずつ確認していく。
ライフスタイル事業部の相沢本部長が上座。おそらくこのブランドの総責任者になるのだろう。次に紡の所属する営業企画部の部長、関連部署の課長がふたり。隣の席は営業部の黒木の名前だった。
会議開始の三分前、参加者がぞろぞろと入ってきた。営業企画部長が紡を見つけて目を見開く。
「おっ、白瀬。早いな。気合い入ってるな」
「はい。初めてメインで入るので」
「気負わずいけよ」
肩を軽く叩かれて、紡は頭を下げた。
相沢本部長も着席して、開始時刻が迫ってきても、隣の席だけが空いていた。開始の直前になって、黒木が「すみません、遅くなりましたー」と言いながら滑り込んできた。
紡は会釈した。黒木はすぐに身を寄せてきて、息のかかる距離で、耳元に小さく囁いた。
「白瀬さん、今回はまた大きな案件ですねぇ。よろしくお願いします」
紡は笑顔で「お願いします」と返した。
紡は黒木と過去に何度も組んでいる。距離感が、いつもすこしおかしい。他の同僚にも同じなのかと観察してみたことがあるが、そうでもなかった。なぜ自分にだけ近いのか、紡には見当がつかなかった。話しやすいから、というだけのことかもしれなかった。
左隣で、紡の腕に黒木の腕がぴったりと触れている。視線に気づいたのか、黒木がこちらを向いてにこっと笑った。紡は曖昧に微笑み返して、すぐに正面を向いた。
相沢本部長が立ち上がった。
会議室の空気が一段、引き締まった。
スクリーンにスライドが映し出される。
「これから新ブランドの説明に入る。ここにいる全員が、今回のプロジェクトに関わる。しっかり頭に入れてくれ」
紡の喉が、自然と上下した。
次のスライドに切り替わる。
「新ブランド名は『blanc(ブラン)』。我が社が初めて本格参入する、プレミアム・ライフスタイルの文具ラインだ」
次のスライドには、商品が並んでいた。万年筆、ノート、レザーペンケース、デスクアクセサリー。どれも素材から手をかけた、上質な品ぞろえだった。
「ターゲットは三十代から四十代の働く大人。来春三月下旬の市場投入を目標とする」
紡は資料に目を落とす。
ブランドコンセプトは「余白のある生活」と書かれていた。
働く大人。紡よりすこし上の年齢。コンセプトを目で追いながら、自分のいまの暮らしを思い返した。余白のある生活など、紡からはほど遠かった。毎日仕事に追われて、プライベートはほとんどなにもない。恋人もいない。十年前から片想いしている人が、ひとりいるだけだった。
余白、という言葉を紡はもう一度、心のなかで反芻した。空白とは違う。なにもないということではなく、なにかが置かれるべき場所として残されているということ。自分の生活には、その余白すらもう、ない気がした。仕事と、片想いと、その二つの隙間に、もう、空きはなかった。
その人の顔が、ふいに脳裏をよぎった。
駅のホームのベンチに崩れて眠っていた、あの夜の有馬。あんなふうに無防備に眠るなんて、考えただけでも危なっかしい。マンションまで送り届けて、翌日にきちんと連絡が入ったのだから、無事だったことは確かだ。
ほっとした、と認めた瞬間に、その隣で、別の感情がそっと頭を持ち上げる。
あの「ありがとう」の五文字以来、メッセージは止まったままだった。
相沢本部長の声が、紡の意識を引き戻した。
「営業企画部から白瀬をメインに専任アサインする。代理店選定、クリエイティブディレクション、販路設計、店頭展開、すべての統括窓口だ」
会議室から拍手が起こった。
紡は立ち上がり、背筋を伸ばした。
「……よろしくお願いします」
「白瀬、頼んだぞ」
相沢本部長が紡に向けて笑った。びりっと緊張が走ったが、いやな緊張ではなかった。入社五年目でこの規模を任されるのは、社内では異例の人事だった。
会議が終わると、紡は一気に体の力が抜けるのを感じた。
代理店選定だけでも頭が痛いのに、クリエイティブディレクションや販路設計、店頭展開まで、すべて自分の肩に乗ってくる。会議前まで雲の上を歩いていた感覚が、終わった瞬間にひっくり返って、足元から不安が押し寄せた。
本当に自分で務まるのか。
いや、相沢本部長が直々に名指しした人事だ。これまでの仕事ぶりが認められた、ということでいい。そう自分に言い聞かせた。言い聞かせても、不安はきれいには消えなかった。
ノートパソコンを抱えて会議室を出ようとすると、黒木に肩を叩かれた。
「白瀬さん、また相沢さんのお気に入り案件かぁ」
ニヤニヤしながら顔をのぞき込んでくる。
「またって。今回が初めてですよ」
「いやいやいや。前も相沢さんの案件、入ってたじゃないですか」
「あれはたまたま人手が足りなかっただけです」
「ほんとかなぁ。相沢さんのご指名って聞きましたよ。モテる男は違うね」
「モテてないですよ」
「またまたー。今度、ご飯奢ってください、出世頭!」
黒木は紡の肩に腕を回してくる。紡はすこし身をよじって距離を取った。
「もう」
「はははっ。じゃ、お誘いお待ちしてまーす」
黒木はそのまま笑いながらオフィスへ戻っていった。
紡が小さく息を吐いたとき、向こうの島の席で水瀬遥と目が合った。水瀬はなにも言わずに、すぐ視線を手元のキーボードに戻した。なにを見ていたのかは、訊かなくてもわかる気がした。
その日の午後、デスクの電話が鳴った。
「はい、白瀬です」
『相沢だ』
紡は息を呑んで背筋を伸ばした。
「お疲れさまです」
『すぐにこっちに来てくれ』
「承知しました」
受話器を置くと、紡はノートパソコンを抱えて相沢本部長の席へ向かった。本部長は紡がくると一瞬だけ顔をゆるめて、すぐに表情を引き締めた。
「来週、代理店コンペの結果が出る」
「はい、スケジュール通りですね」
「そうだ。勝った会社の担当と、お前が密に組むことになる。この先半年は、家より会議室にいると思っとけよ」
ニカ、と歯を見せて笑った。
「はい」
紡が頷くと、相沢本部長は一枚の資料を差しだした。
「コンペ参加の五社だ。目を通しておけ」
大手から中堅まで、聞き覚えのある社名が並んでいた。
自席に戻り、紡はリストを上から順に確認した。
その中のひとつ、セントラル・アド、で目が止まった。
中堅よりすこし上に位置する代理店で、クリエイティブの評判がいい。大手より小回りが利く分、新しい仕掛けを次々と打っているらしい。紡は、別の取引先からもそんな話を聞いたことがあった。
――有馬は、どこで働いてるんだろう。
ふと、思った。
有馬の実名のSNSアカウントには、業種も会社名も書かれていなかった。プロフィール欄には、ほんの数行、当たり障りのない自己紹介があるだけだった。投稿される写真からも、勤務先を匂わせる情報は徹底して避けられていた。
連絡先はもう手元にある。気軽に訊けばいい。
「いまどこで働いてるの」とメッセージを送るだけのことだ。答えが返ってこようが返ってこまいが、訊いたという事実だけは残る。
訊けばいいのに、訊けない。
十年前に距離を取られたという事実が、まだ、紡の指の動きを止めていた。連絡先をくれた相手に「いまどこで働いてるの」と訊かれたら、有馬は「答えるのが面倒だ」と思うかもしれない。面倒だ、と思われた瞬間に、紡は二度と返信を受け取れなくなる。そう考えてしまう自分が、紡には、すでに見慣れた顔だった。
その日の帰り、紡はいつもの遠回りをやめて、駅まで真っすぐ歩いた。
ホームへ上がると、視線が反射的にあのベンチを探した。誰も座っていない。同じ位置に、同じ形で、ただそこにあるだけだった。
歩調をすこしだけゆるめて、ベンチの前を通り過ぎた。
到着のアナウンスとともに、電車が滑り込んできた。突風のような風を浴びながら、紡はその電車に乗り込んだ。
車内でスマホを取り出す。
有馬とのメッセージ画面を開く。『ありがとう』の五文字のあと、時間は止まったままだった。
なにか、送りたい。
送りたいのに、次の一手が、紡には、どうしても思いつかなかった。
窓のガラスに自分の顔が映っている。ネクタイは、朝よりすこし、ゆるんでいた。
翌週の火曜日、紡は洗面所の鏡の前に立っていた。普段より三十分早くマンションを出るつもりだった。 いつもと変わらない朝のはずだった。なのに、髪をセットする手にいつもより力が入る。前髪の流し方を二度直して、ようやく落ち着いた。 ネクタイを締め直すと、結び目がいつもより一センチほど上に、きれいに収まった。たったそれだけのことで、なにかいいことが起きそうな気がしてくる。気がしてくる、ということ自体が、自分でも不思議だった。 今日は新ブランドの社内説明会議がある。ターゲット、展開商品、関わる人員。すべてが今日明らかになる。新ブランドの立ち上げにかかわれる社員は、社内でも一握りしかいない。そこに自分が選ばれたことは、紡にとって、入社五年目で初めてはっきりと手応えのある出来事だった。 雲の上を歩いているような気持ちが、出社しても抜けなかった。エレベーターで自分のフロアに着いたとき、社員証をかざすカードリーダーの音が、今日はすこし高く聞こえた。いつもと同じはずなのに。 ふと立ち止まり、紡は両手で軽く頬を叩いた。 メイン担当になるということは、自分が中心で動くということだ。浮ついている場合じゃない。気合いを入れ直して、自席へ向かった。 自席に着いて、会議資料を確認する。 文字を追うだけで胸が高鳴る自分に、紡はすこし笑ってしまいそうになった。こんなふうに仕事に高揚しているのは、入社してから初めてかもしれない。 時計を見ると、会議の十分前だった。すこし早いかもしれない。それでも紡はノートパソコンを小脇に抱え、会議室へ向かった。普段は冷たく落ちてくる蛍光灯の光が、今日はどこか温度を持って見えた。 会議室は指定席だった。ネームプレートが机ごとに置かれている。紡は深呼吸して、自分の名前のプレートが置かれた席に座った。 まだ誰も来ていない。プレートをひとつずつ確認していく。 ライフスタイル事業部の相沢本部長が上座。おそらくこのブランドの総責任者になるのだろう。次に紡の所属する営業企画部の部長、関連部署の課長がふたり。隣の席は営業部の黒木の名前だった。 会議
自宅のマンションに帰り着くなり、朔也は玄関でへたり込んだ。 やばい。 十年間ずっと会いたいと思い続けてきた相手と、よりによってこんなかたちで再会した。スーツに皺がついたまま、玄関のたたきにうずくまっている自分を、どこか他人ごとのように朔也は感じていた。 うれしすぎて、高校時代の自分にすぐ戻りそうになる。けれど、自分から距離をとっておきながら今さら「久しぶり」とは言えなかった。十年前、自分の側で線を引いたのだ。引いた線を、今になって自分から踏み越える権利は、たぶん、もう、ない。 駅のホームのベンチで酔いつぶれていたら、声をかけられた。懐かしい声だと気づいたときには、目はもう半分ほど開いていた。焦点が合った瞬間、紡の顔がそこにあった。幻覚を見ているのかと思った。徐々に輪郭が鮮明になっていって、本物の紡だと確信した瞬間、朔也の酔いは音を立てて飛んだ。 それでも、朔也は酔いつぶれたふりを続けた。 しらふで対応したら、自分がどんな顔をしてしまうか、わからなかった。十年もずっと片想いを引きずっている、なんて、痛すぎる。痛さを紡に見せたくなかった。 あふれそうになるものを抑えるためにシャワーを浴びた。湯を頭から被っても、熱は引かなかった。無理やりベッドに横になり、目を閉じた。覚めたつもりでもアルコールは残っていたのか、意識はあっという間に遠のいた。 翌朝、目を覚ました瞬間、知らない天井がそこにあった。 いや、自分の部屋の天井だ。それなのに、なぜ「知らない」と感じたのか、すぐにはわからなかった。 鼻の奥に、かすかな柑橘の香りが残っている気がした。誰かの肩にもたれかかった感触。耳のすぐそばにあった他人の息遣い。 あれは、やっぱり夢だったのだろうか。 好きでたまらなかった相手だった。 あまりにも近くにいすぎた。だから、いつ気持ちがあふれだしてもおかしくなかった。あふれだした瞬間に、あの関係は終わる。確信に近い予感だけが、十年前の朔也のなかで先に育っていた。壊れるくらいなら、なにも言わないほうがいい。それが朔也のたどり着
予想通り、眠れなかった。 十年間、会いたいと思いつづけてきた人が、ついさっきまで自分の肩で眠っていた。その光景が頭のなかで何度も繰り返し再生され、紡はベッドのなかで瞼を閉じることもできないまま朝を迎えた。 胸のポケットに押し込んだメモを、有馬がいつ広げるのか。広げたとして、なにを思うのか。捨てるのか。捨てるとしたら、玄関のごみ箱なのか。それとも、駅の改札脇なのか。考えはじめるとどこまでも枝分かれしていって、それを一本ずつたどるうちに窓の外が白みはじめていた。 身支度を整えても頭はぼうっとして、体が重い。食欲もなく、ブラックコーヒーを一杯だけ飲んで家を出た。 電車のなかでは、吊り革に寄りかかるようにして揺られていた。立っているだけで体が斜めにかしぐ。隣の乗客にちらりと見られて、紡は慌てて姿勢を直した。 会社に着いても、ゆっくりしている暇はなかった。新規ブランドの立ち上げが目前で、社内全体がじわじわと忙しくなりはじめている。寝不足だろうが疲れていようが、仕事は待ってくれない。 紡はブラックコーヒーをマグカップで三杯、立て続けに胃へ流しこんだ。空腹の胃にコーヒーがしみて、奥のほうがキリッと痛む。それでも頭はずんと重いままだった。 こめかみを人差し指の第二関節で押しながら、営業資料に目を落とす。文字は確かに並んでいる。読めない。視線が上に滑って、また同じ行に戻る。 ――忙しいんだから、しっかりしろよ。 自分に言い聞かせても瞼は勝手に落ちてくる。 だめだ。今日は、進む気がしない。 紡はマグカップを手に給湯室へ向かった。四杯目のコーヒーを淹れに行きながら、紡は十年ぶりに肩で感じた重さを、まだ自分が覚えていると気づいてしまった。 ようやく昼休みになり、社員食堂へ向かった。 午前中は、会社員になってからいちばん長く感じた時間だった。集中できないと、時間というのはこんなにも進まないものなのかと、初めて知った。 日替わりランチをトレイに乗せ、空いているテーブルに腰を下ろす。アジフライにひじきの煮物、味噌汁、ご飯。揚げたてのアジに箸を入れると、衣がさくっと音を立てた。口に運ぶと、ふっくらとした身が舌の上でほどけていく。「うまっ」 小さく呟いたそのとき、スマホが震えた。 茶碗をトレイに戻し、画面に目を落とす。知らない番号からのショートメッセージだった。
終電が去ったあとのホームは、急に音がなくなった。 紡は、ベンチの前にしゃがんだままで、しばらく動けなかった。有馬の目は、紡を見ているのか見ていないのか判別がつかなかった。ただ、目だけは開いていた。 駅員の足音が、ホームの向こうから近づいてきた。「お客さん、大丈夫ですか」 近くで聞こえた声に、紡はようやく我に返った。膝を伸ばして立ち上がる。「すみません、大丈夫です。すぐ出ますので」 駅員は、軽く頷いて、別のホームへ歩いていった。紡は、もう一度、有馬に向き直った。「有馬、立てる?」 返事は、母音だけのような、よくわからない呟きだった。それでも紡の声に応えるように、有馬はゆっくり立ち上がった。立った瞬間、足元が大きくぶれて、紡はとっさに腕を伸ばした。 有馬の体が、紡の腕の中に倒れ込んでくる。 息が止まった。「……お前、相当、酔ってるな」 返事はなかった。 紡は有馬の右腕を自分の肩に回し、もう片方の腕を有馬の腰に添えた。半身で抱えるかたちで、ホームを歩きはじめた。一歩、踏みだしただけで、想像していたよりずっと重たい体重が、紡の肩にのしかかった。記憶のなかの、リュックを揺らして歩く高校生の体ではなかった。当然のはずなのに、その当然が、紡には、どこか不思議に感じられた。 肩越しに、整髪料の柑橘の匂いと、わずかな酒の匂いが交じる。十年前、紡が知っていた匂いとは、別の匂いだった。「家、どこ?」 肩を支え直しながら、訊いた。「……えき、の……」 呂律の回らない口で、有馬は、町名を呟いた。聞き取れたのは、都心からは少し離れた地名だった。終電は、もう、行ってしまっている。「タクシーで送るから、しっかりしろよ」 返事のかわりに、紡の肩で、有馬が小さく頷いた気配があった。 なんで、こんなになるまで飲むんだ。 心配と苛立ちのちょうど真ん中のような感情が、ふと
水曜日の夜、二十三時四十分。 白瀬紡は駅のホームの端で、電光掲示板を見上げていた。終電まで、あと三本残っている。残業明けの目の奥が、じんと重い。十月の上旬の夜気は、思っていたより冷たくて、スーツの隙間からするりと滑り込んでくる。コートにはまだ少し早い季節だった。「……今日は終電じゃないだけ、ましか」 吐き出した息が、白く空気に溶けた。誰にともなく呟いた声を、自分の耳で確かめるように聞く。明日もどうせ残業の予定だ。この疲労がそのまま明日に持ち越されることは、もうわかっていた。新ブランドの立ち上げが秋から本格化する、という話が部内に下りてきてから、紡のデスクには毎日、判断待ちの書類が積み上がっていく。会社を出るころには、もう、二十三時を回っていた。 ポケットから指先をだして、目頭を軽く揉んだ。少しだけ、楽になった気がした。 乗り換え案内のアナウンスが、ホームに流れる。同じトーンで繰り返される録音音声のあいだに、駅員の生のアナウンスが混じる。終電が近い時間の駅は、いつも、こんな空気をしている。明るすぎる蛍光灯と、薄く酒の匂いが漂う構内と、誰もどこかへ帰りたがっている顔ばかりが並ぶホーム。 ふと、紡は自分の立っているこの駅が、自宅にも会社にも近くないことを、もう一度、意識した。乗り換えのために降りた駅だ、ということにしている。一年ほど前から、紡はときどき、わざわざこの界隈で電車を降りるようになった。理由は、自分でも、ちゃんと言葉にしていない。言葉にしたら、ばかみたいだから。 ただ、何度かこの駅を歩いてみても、なにかが起きるわけではなかった。当然のように、なにも起きないまま、紡は何度も、別の路線に乗り換えて家に帰った。それでも、月に一度か二度、紡はこの駅に降りた。降りたあと、改札を出るでもなく、ホームのベンチに座って、しばらく電車を見送ってから、また別の電車に乗り直すこともあった。自分が、なにを期待してここで降りているのか、確認しないようにしてきた。確認したら、そのときに、自分の行動の意味が、急に、こわい色に変わる気がした。 考えはじめたら止まらなくなる気がして、紡は浅く息を吸って、考えるのをやめ